■コメント
式内社・須佐能袁能神社の論社とされる備後一宮です。
境内はJR福塩線に沿うようにあり、面積は広いです。しかし、社殿などが少なく、境内の端のほうにあるので殺風景な感じがします。
社殿は備後一宮のわりには小さく感じますが、実際は結構大きく立派な社殿です。
この広い境内は、地元の人が公園代わりに散歩したり、子供の遊び場にもなっている、地域の集まり場所のようになっているようです。
また、境内北には芦田川対岸にかつてあった相方城の城門が移築されています。
毎年、この広い境内で毎年7月に『喧嘩みこし』が行われる祇園祭があり、たくさんの見物客が来るそうです。
この神社は、かつては疫隈(江熊、江隈)社と呼ばれていて、後に須佐能袁能神社と呼ばれるようになり、さらに牛頭天王社、天王社、祇園社、祇園牛頭天王社などと呼ばれ、明治元年の福山藩の調査により式内社・須佐能袁能神社とされ現在の社名に変更されたそうです。
牛頭天王社、天王社、祇園社、祇園牛頭天王社という呼称は、牛頭天王を祭神とするのでしょうが、牛頭天王は仏教から来た神で、祇園精舎の守護神。神仏習合により武神・素盞鳴尊と習合して祭られるようになりました。
そのため須佐能袁能神社がそのような名称で呼ばれたことがあるのだと思われます。 現に、この神社はかつて神仏習合の神社で、かつては神宮寺として早苗山天龍院天王寺があったそうです。
また、現在も通称『天王様』と地元の方は呼んでおられるようです。
しかし、所在地の福山市新市町戸手は福山市との合併前は芦品郡、芦品郡誕生前(芦田郡と品治郡の合併)は、品治郡でした。延喜式では、須佐能袁能神社は深津郡の所在となっているため、これではおかしいです。
式内社調査報告によると、素盞鳴神社所蔵の天分10(1541)年の資料に『深津郡江熊牛頭天王社再興之事』とあり、さらに備陽六郡誌に『往古此辺まで深津郡なりし』とあるそうです。
おそらく、鎮座地・戸手の西側を流れる神谷川まで昔は深津郡だったと考えられます。(神谷川西岸は品治郡)。 その後、深津郡北部を品治郡に割譲したと思われます。
(昔の深津郡はかなりイビツな形をしていたことになります)
他にも、福山市蔵王の天神社や福山市神辺町上御領(ここは旧・安那郡)も論社とされているようですが、資料が薄弱だそうです。
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