大吉備津彦命(オオキビツヒコノ ミコト)ほか
桃太郎のモデルになったといわれる、有名な吉備津彦命と温羅の戦いの伝説(吉備津彦伝説、温羅伝説)にまつわる神社。 第7代孝霊天皇の皇子の「五十芹彦命(イサセリヒコノミコト、のちの大吉備津彦命)」が、第10代崇神天皇の御代に四道将軍の一人として吉備平定のため派遣され、”吉備の冠者(かじゃ)”を名乗る「温羅(うら)」という鬼のような大男を倒した。温羅は”吉備の冠者”の称号を命に献上し、命は「大吉備津彦命」として平和と秩序を築き、この地に宮を造営し吉備の国の人々のために殖産を教え、仁政を行ない、長寿を以てこの地に薨去せられた。 社伝によれば仁徳天皇が吉備の国に行幸した時、御創建になったともいわれる。 -岡山県神社庁HPより- [ 境内由緒案内板 ] [ 詳細 ]
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備中国式内社。 備中国一宮。 吉備の総鎮守。 岡山県神社庁加盟。 「鳴釜神事」が有名。
■コメント 桃太郎のモデルになったといわれる、有名な吉備津彦命と温羅の戦いの伝説(吉備津彦伝説、温羅伝説)にまつわる神社で、おそらく岡山県で最も有名な神社。 古来は、吉備津神社とも吉備津彦神社とも呼ばれていたようです。 もちろん祭神は吉備津彦命。 また、吉備津彦命が倒した温羅の首を埋めたとされる鳴釜殿があり、釜の鳴り具合で吉凶を占う「鳴釜神事」は有名。
備中国式内社(大社)で、備中国一宮。 吉備(備前・備中・備後・美作)の総鎮守です。 吉備国が備前・備中・備後に分かれた時、備前・備後にも吉備津神社が分社され、それぞれの国の一宮となっています。 また、備前から美作が分国したときも中山神社として吉備津神社から分社されました(ただし、中山神社については諸説あり)。
かなり大きい神社なので数回に分けて取材。 サイト上も数回に分けて掲載します。
[ 境内案内 ]